書くことは誰でもできる?

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20161128205146


文章を書きたいと思って、ちょうど3年くらいが経つ。

今更ながら、「書く」という行為の難しさを実感している今日このごろ。

仕事として不特定多数に向けて書く文章は、
ブログで好き勝手書くのとは当たり前ながら違う。

さして興味が強くない人をいかに惹き付けるか、という技術も必要だし、
「書かなくても、わかってくれるよね」という以心伝心、日本人的な甘えは通用しない。

そして書くということには休みが無い。
こうしてブログを書いているのも、「書く」ことの延長だし(でも書きたいから書く)。

私が切り替えがヘタなだけなのか?

ヨガしているときも、お風呂に入っている時も、
常に「あっ、あの部分の構成、こっちのほうがいいかも!」
なんて考えちゃって、全然休まらない。

 

書くことと格闘するときいつも頭をよぎるのは、 
いつかある大切な人に送ってしまった失礼なメール。

書くことを命のように思っている人に対し、浅はかにもこんなことを書いた。

「本当に、文章を書くのは大変で、適当に中途半端な文章を書けないですよね。
でも、私は楽器も絵もできないし、芸術的な創作を出来るとしたら、文章を書くことだけなのです。」

……なんて傲慢だったんだろう。

確かに、みんな、言葉を使う。作文だって、小学生の頃からしてる。
みんなが当たり前にしている行為。 
誰もが「私でも、できるかも」と思ってしまうかもしれない創作。 

だからこそ、いま、その深さに苦しんでいる。

その失礼なメールを送りつけられた人は、私を見捨てないでいてくれて、
最近も、もがいている私にこんな言葉を教えてくれた。

「余白と行間、そこには犠牲の蜜が流れている」ジャン・コクトー

コクトー、この一文だけで、好きになりそう。
国も時代も飛び込えて会話している感覚。

だから、言葉って、好きだ。

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