大寄せの茶会で「お運びさん」体験

きもの

今月初旬に大寄せの茶会があった。 
「お運びさん」として参加することになりひそかに緊張して出かけた。



(遠方なので、5時起きで着付け)

「お運びさん」とは、お茶やお菓子を運ぶお手伝い役。人数が多いお茶会では亭主が全員にお茶をたてることは時間的に難しいので二服ほどたてた後はお運びさんがお茶を出したり茶碗を片付けたりする。ひとりひとりの動作など誰も見てはいないだろうけど粗相があったら大変(実際お運びさん同士がぶつかってお茶をひっくりかえすこともある)、実は緊張する役目なのだ。

ひと働きする前に客席に入らせて頂きお手前を頂戴した。
まだ日が低く薄暗かったせいもあるのだろうか、茶筅通しのときに見た幻想的な光景が残像としてまだ残っている。
茶筅通しとは茶筅を茶碗のなかに入った湯や水で清め、その後茶筅を持ち上げて穂先を調べる作法なのだが、お湯の場合、茶筅を上に持ち上げる時に、穂先から白い湯気がほわっと立ちのぼるのだ。仄暗いなかでみる空気の流れ。
ふだんのお稽古では明るい場所で行うし亭主の動作を遠くから見ることもないから気づかなかった。
なんて美しいんだろう、とうっとりしてしまった。
茶筅を持ち上げる動作は3回あるのでそれが続けて見られる贅沢。その場はしんと静かで亭主は凛と美しかった。
(水屋で見ると、そうでもないから不思議……失礼、でもスポーツしてないスポーツ選手と一緒の原理だと思う)
所作が美しいって、人を美しく見せる。

それから全然違う流派のお手前を頂いた。作法が違う不思議をあらためて思う。
違う流派のひとと話をすると、「他の流派のことは知らないけど」とたいていいうが、その裏に自分たちが一番と思っているのが透けて見えておもしろい(かくいう私もそうだ)。

亭主と正客(客のなかで一番えらいひと)とのほんものの会話もおもしろかった。
お茶席では正客以外は亭主と会話できないから、皆が耳を澄ませる中でいかに気の利いた会話ができるかが正客の力量となる。
当然お軸やお花、茶器のこと、お茶席にからむ深い知識があれば会話も深まり羨望のまなざしを浴びることになる。
正客は大役だから固辞するひとも多いようだが正客が堂々としていると本当にほれぼれする。

とはいっても会話のパターンは決まっていると思われる。
お軸をほめて、お花をほめて……→亭主は謙遜の応酬。
「たいしたものを持ち合わせていなくて、どうぞお目こぼしくださいませ」
ひさびさに聞いた日本語多多有り。


6月初旬だったので単衣の付け下げに夏物の綴れの袋帯、半襟や小物も夏物。他のお運びさんの衣装は、小紋の方もいらっしゃったけど色無地に九寸名古屋or袋帯が多かった。やはり色無地は茶事には万能のよう。

それにしても、すべりのよい絹地の着付けのしにくいこと……裾も落ちてきてお運びをするのに動きにくかった(教訓:かなり短めに着付けるべし)。 
うまく着付けができなかった自分のことは棚において人の着付けに目がいく。
この日の発見はお茶のベテランらしき人でも必ずしも着付けがうまいとは限らないこと。ただしかなり年配の方になると帯揚げがぐずついているのなどもSTYLE(昔はそうだったのかな……ふむふむ)と思えてくるから不思議だ。それから亭主の袂は視線を集める。長襦袢と着物のサイズがあってなくて長襦袢の袖が飛び出していたりするとどんなに所作が美しくても興ざめする。

お運びさんの仕事自体は慣れてしまえばこちらのもの。お菓子を出す・下げる、お茶を出す・下げる……それぞれに作法はあるが客に失礼がないのが一番。それよりも水屋(裏方)の渋滞の方が深刻だった。人やまの中をいったりきたりしていたせいか気づいたら着物の袂に鉛筆でかいたような汚れができていた。おろしたてだっただけに哀しくまた淡いグレーで無地の部分が多いため目立つのだ……同じ状態はひとつとして続かない、「諸行無常」で割り切れるほど私はまだ達観してないらしい。

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