『フレンチの王道 シェ・イノの流儀』を読んで

 今年で92歳になるわたしの義母は、驚くほどの健啖家でフレンチが大好物。並みの若者よりよく食べるのだが、フレンチのなかでもモダンなものや創作系を嫌い、昔ながらの料理を好む。健康志向、食の軽量化が進んだいまの世の中、「ヘルシーで軽い」料理を出す レストランが主流なので、家族で食事するときには意外と店選びに苦労する。

 代官山の『レストラン・パッション』はオープン以来30年の常連。そのほか、パッションの系列である『ル・プティ・ブドン』、『アピシウス』など、クラシックフレンチのお店をリピートすることになるのだが、『シェ・イノ』は義母のお気に入りリストの筆頭。それゆえ、「フレンチの王道」という本書のタイトルが身をもってしっくり感じられた。

 本書をよんで沸きおこったのは、「ALWAYS 三丁目の夕日」をみて胸がきゅんとするような、古き良き時代への郷愁と、高度経済成長とともに発展した日本のフランス料理界への憧れである。「フレンチ料理とイタリア料理は違うんだ」という認識レベルから、人々の味覚が進歩するのとともに、井上さんも「ヌーベル・キュイジーヌ」の寵児として花開いた。怒濤の勢いでフレンチ道をつきすすむ本人の並外れた努力・行動力・才能はもちろんだが、時代の波にうまく乗ったことにより、シェ・イノがクラシックフレンチの元祖としてゆるぎない地位を築いた、ということが読みとれた。

 「世界一の料理人」を目指して研鑽を重ねてきた井上さんを筆頭に、彼が影響を与えた料理人たちが本場なみにレベルの高い一皿をつくろうと日々努力してきたのはよくわかる。それではわれわれ食べ手はどうだろうか。

 本書のなかには、各界の財界人、名士、文豪など上客の話が出てくる。オープン以来の常連、毎年ジビエの時期には必ず食べにくる紳士、世界中の美味美食を食べ歩いたグルマン達……「お金を出せば誰でもいつでも食べられるというものではなく、季節と場所と料理人とそれを食べる人をも峻別する料理」オート・キュイジーヌを出すシェ・イノには一流の舌をもった人たちが集う。

 ここでふと考えたのは、味のわかる上客はいいとしても、来店する客すべてがグラン・メゾンにふさわしいだろうか、ということである。日本のレストランでは、よほど無礼なふるまいをしない限り、かつての『マキシム』みたいに門前払いされることはないだろうが、重要なのは、客のひとりひとりが出された料理にどう向き合うかではないだろうか。

 こんな岡本太郎のエピソードがある。彼はピカソの絵をみて感動したときに、こう言った。

「感動しているのはこっちで、その絵じゃないんだよ。その絵がすばらしいんじゃない。感動しているこっちがすばらしいんだ」。

 この「絵」を料理にあてはめてみると、いわんとすることが伝わるかもしれない。ピカソの名作を見て反応しない人がいるように、すばらしい料理を前にしても、まったく反応しない(できない)人もいる。そう考えると、料理人が魂を込めた「作品」に反応してくれる、すなわち店に選ばれる食べ手になるには、感性を磨き、味覚レベルを引き上げる努力をすべきではないだろうか。

 はじめてイノにいった日、メインにいただいたのは、もちろん「マリア・カラス」。いまやひとつの固有名詞となった看板料理、イノにきたらぜったい食べたい、と思い続けてきた一皿だった。

皿が目の前に置かれた瞬間に立ちのぼるトリュフの芳香、美しいロゼ色の仔羊にフォアグラと赤ワインソースが絡み合う濃厚なうま味、そしてボルドーの古酒との完璧なマリアージュ……私自身はまだまだひよっこの食べ手だけれど、イノの歴史がつまった「味わい」に感動した瞬間は、今もはっきりと覚えている。

*神山典士さん主催の出版記念食事会の事前課題で提出した読書感想文です。3位入賞*